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11 墨染寺 日蓮宗

貞観16年(874年)に建立された貞観寺の旧跡で、16世紀後半増長院日秀上人が豊臣秀吉公の知遇を得、この地を日蓮宗の寺として最高することを許され、墨染櫻寺として再興されました。平安時代の歌人、上野峯雄(かんつけのみねお)が藤原基経の死を悼んで「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」と詠んだところ、なんと薄墨色の桜を咲かせたのだいいます。そのことから「墨染寺」と呼ばれるようになりました。境内には墨染の地名の由来となった墨染桜が植えられ、人々からは「桜寺」と親しまれています。現在は3代目の桜が花をつけます。

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12 栄春寺 永禄十一年(1568)傳養和尚が開創したといわれる伏見で最初の曹洞宗寺院です。境内北の墓地は木幡山の西北麓に位置し、そこには唯一の伏見城現存の遺構とされる土塁があります。現在見えている石垣は土塁の跡に積まれたものだそうです。江戸時代の兵法学者・長沼澹斎の墓などがあり、内陣天井の「竜図」なども見学可です。

13          海宝寺

享保年間(1716 - 1736年)に萬福寺12世の杲堂元昶(こうどうげんちょう)によって創建され、13世竺庵浄印 (じくあんじょういん)が初代住職として元文4年(1739年)に海宝寺に入りました。大丸の業祖・下村彦右衛門正啓(1688~1748年)は、この竺庵禅師に帰依し、浄財を投じて境内を整え毎年の収益の幾分かを布施し援助を続けました。以来、下村家では海宝寺に礼を厚くし、宝暦14年(1764年)には正啓の17回忌法要の際に海宝寺に祠堂「無尽蔵」を建てています。方丈には、伊藤若冲が水墨画の大作「群鶏図」を描き、それを最後に筆を置いたとされる「若冲筆投げの間」があります。「桃山町正宗」という町名は、仙台藩の藩祖伊達政宗の伏見城上屋敷があった場所に由来しています。境内には伊達家上屋敷跡の説明板が仙台市によって設置されている他、伊達政宗公手植えの老木「木斛」が現存し、その第二世代となる「木斛」も承継樹として大事に育てられています。また、黄檗宗の名物「普茶料理」(精進料理)は、特菜(梅干の日の出揚)・雲片(干菜の葛寄)・麻腐(白胡麻・吉野葛の豆腐)・箏羹(野菜煮合)など、もとても美味しいと評判です。(要予約)

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14 浅田製瓦工場

飛鳥時代に日本に伝来した瓦は、長い間貴重なものとして寺院や城郭など、限られた場所にしか使われていませんでした。そんな時代に東山・智積院(ちしゃくいん)の辺りから採れる粘土を用い、焼く前に磨くことで独特の光沢を誇ったのが「京瓦」です。主として寺院の本葺きの屋根に用いられてきましたが、江戸時代、本葺きの簡略化した桟瓦葺きが考案されたことで、民家にも普及し、草葺き、 板葺きの屋根が瓦葺きに取って代わり、京都は全国的な瓦の産地として名をあげることになりました。(浅田製瓦工場HPより)

15 聖恩寺 黄檗宗

聖恩寺の開山は寛永三年(1626)、法雲洞老和尚大禅師によるといわれています。大亀谷にあった「聖恩寺」を大鵬正鯤(黄檗山第15代) が、現地に移したとされています。一時、無住職の寺となったそうですが、戦後、黄檗山萬福寺の特命により現在の寺が再建されました。寺内には、南画の第一人者で禅僧の直原玉青画伯(1904~2005)による「十六羅漢僧之図」があります。

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16          伏見港

江戸時代、伏見は京都・大坂の水運の拠点の港として発展し、人口4万人を擁する日本最大の内陸港湾都市でした。1700年頃には、淀川を運行する船は、過書船(江戸時代、運上を納めて、京坂間の貨客輸送のため淀川を航行した船。三十石積みから二百石積みまであり、乗り合い船としての三十石船が有名)742隻、淀船507隻、伏見船200隻、高瀬舟128隻を数えたといいます。伊藤若冲は、1767年春、大典顕常とともに京都の伏見口と呼ばれた船着場から大阪へと舟旅をしました。その時に仕上げた一巻の絵巻(紙本拓本)が『乗興舟(じょうきょうしゅう)』です。幅28cm、長さ11mを越える長い絵巻で、淀川沿いの情景に、若冲と旅を共にした大典顕常の漢詩が添えられています。

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