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ふしみ
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若冲 ロード

若冲について
1716年、京・錦小路の青物問屋・通称「枡源(ますげん)」の長男として生を受ける。
1739年、23歳のとき、父の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名
1755年、家督を弟・白歳に譲る
1758年頃から「動植綵絵」を描き始め、1959年には鹿苑寺大書院障壁画を制作
1788年の天明の大火で自宅焼失、伏見深草の石峯寺に庵を構える。
晩年、石峯寺の五百羅漢石像や天井画、豊中の西福寺や伏見の海宝寺で大作の障壁画を手がけた。
「若冲」の号は、禅の師であった相国寺禅僧・大典顕常あるいは月海元照(売茶翁)から与えられたとされる。斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)とも号す。
没後、石峯寺に土葬されたが、若冲の墓は、相国寺の生前墓と石峯寺の2箇所にある。
若冲の作品
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若冲ロード
江戸時代の天才絵師・伊藤若冲(1716~1800)は、天明の大火(1788)の後、伏見の石峰寺(黄檗宗)に庵を構え、そこを拠点に晩年の創作活動を精力的に展開しました。
この伏見時代を中心とした若冲の足跡やゆかりの地を訪ね、
これからを生きる私たちにつなぐ道が、伏見・「若冲ロード」です。
人々の多様な営みの中で形成された歴史遺産や自然の風景、
そこで育まれた文化や伝統、産業や暮らしが息づく“ふしみ”。
「若冲ロード」をヒントにこの“ふしみ”を探索し、
未来につながる“ふしみ”を考えます。

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